マモレポインタビュー
マモレポインタビュー
専門家インタビュー

野村武司先生×株式会社マモル 代表 くまゆうこ

すべての子どもたちに、笑顔を。をミッションに株式会社マモルは、いじめの予兆を検知し、未然に防ぎ、いじめで悩む子がいなくなる社会をめざしています。マモル代表のくまゆうこが、識者と対談し、さまざまな角度からいじめについて深掘りしていきます。

野村 武司(のむら・たけし)

東京経済大学現代法学部教授、獨協地域と子ども法律事務所所属弁護士(埼玉弁護士会)。
日弁連子どもの権利委員会幹事。中野区子どもの権利救済委員、国立市子どもの人権オンブズマン・スーパーバイザーなどの他、各地のいじめ重大事態第三者調査委員会の委員を多数務める。
著書として「子どものいじめ問題ハンドブック 発見・対応から予防まで」などがある。

実は多くのいじめは「小さなこと」によるもの

—— 今日はよろしくお願い致します。最初に先生が現在、どんな活動をしていらっしゃるのか教えていただけますか?

現在は東京経済大学の現代法学部の教員であり、また、“獨協地域と子ども法律事務所”の弁護士として活動しています。また、日弁連子どもの権利委員会の監事、自治体のいじめ防止対策等の委員会・第三者調査委員会や子どもの人権オンブズマン、その他、民間団体だと、子どもの権利条約総合研究所の副代表やその他子どもに関する各種NPOの理事など、子どもの権利やいじめの問題について非常に多く関わっています。

—— 確か先生は青森であったいじめ事件のときも第三者調査委員会で活動していらっしゃいましたよね?

ええ、報道で取り上げられたものとしては、青森市であった中学生の自殺の他、山形県天童市の自殺案件に関する調査委員会でも委員長として調査に当たりました。その他、現在も複数の案件に関わっており、これまでで10数件になるでしょうか。いずれも胸が痛くなるような事例ですが、こうした“いじめ”や、それによって命を断ってしまうことがなくなるように、少しでも力になれたらと思い全国で活動しています。

—— いじめが原因で大切な命を失ってしまうことだけはなんとかしなくてはと感じます。それこそが私がマモルという会社、そしていじめを相談するシステム「マモレポ」を考えるきっかけとなりました。そもそも“いじめ”とは何なのか、まずはそこからお話をお伺いしたいと思っています。

一般的に“いじめ”というと、暴力とか信じられないような暴言とかを思い浮かべます。もちろん、そうした“いじめ”もありますが、しかし実は多くの“いじめ”は、みなさんが考えるようなものとは少し違うのではないかと感じています。
たとえば、物を隠されたとか、ちょっと何かと言われたとか、冷たくしたとか、悪意・悪気のないものもあります。行為だけを取り出して見ていくと大きな出来事のようには見えませんが、実際には深く相手を傷つけている場合も非常に多いのです。

—— 小さなことでも、それが相手を傷つけるということでしょうか?

そうです。起こっているひとつひとつの出来事は小さく見えても、背景にその子を追い詰める人間関係があると大きなダメージになります。「いじめ」は、何かとてつもなく「ひどいことをされた」と考えがちですが、ひどいことかどうかは受け止める本人の側が感じることです。いじめを考える上で、このギャップを意識することがとても重要です。

—— この点がいじめ問題の難しいところだと思います。

いじめの事例を丹念に見ていくと、いじめをした側はそこまでひどいことをした感覚がなかった、ふざけていたつもりだったし相手も笑っていた、ときに、自分は悪くない、相手が悪い、ということがよくある。
でも、たとえば、ふざけていたという場合、実際に受け止めていた側は、自分を守るために笑っていたのであって、人には見せない形で非常に傷ついており、それが限界に達するほど深くなっていくことがあるわけです。

“いじられキャラ” 明るく見えても胸の奥に苦しさを抱えていることもある

野村先生インタビューの様子

—— ふざけていただけ、ということから実はいじめがあったというのはよく耳にするケースです。いじられキャラなんて言い方をしますよね。

クラスに自他共に認めるような“いじられキャラ”がいることは、比較的よくあるケースです。
ある調査の聴き取りで、まさに自他共に認めるいじられキャラの子から話を聴いたことがありました。いかにも“いじられキャラ”らしく、とても明るく、自分のことを話すのです。
でも、しばらく話を聴いていくと、急に表情は曇り、涙を流しながら、「僕、部活動、辞めたいと思ったことがあるんです。」と私に語ったことがあります。本当は“いじられキャラ”がつらかったのですね。もし、その子の様子を表面的に見ていたら、面白おかしく、楽しい子だと思ったでしょう。でも実際にはその子にとって、“いじられキャラ”でいることはとても苦しいことだったのです。
いじめの問題が難しいのは、表面的なことだけでは問題の本質がわからないことだと実感しました。このことは非常に印象に残っています。

—— 「いじりといじめ」は、いじめの問題ではよく取り上げられることですね。

いじりという言い方は、「いじめではなくて、いじりである。」といじめでないことを強調するときによく使われます。このように行為でいじめであるかないかを区別しようとするところに問題があると考えています。 “いじられキャラ”が必ずしも、いじめの対象だと言っているのではありません。“いじられキャラ”は、一種の防衛的な手段であり、自分を貶めて笑いをとってその場を明るくすることが多い。それは周囲との関係が良好であれば、ムードメーカーとしてうまくいきます。
ところが子ども同士の関係性というのは、ちょっとしたことでも変化します。最初は深刻ではなく、笑いの輪の中で楽しく過ごしていたけれど、関係性が目に見えない形でも変わることがあります。そうした場合、“いじられキャラ”は、つらい思いをしていることがあり、そうした場合に、いじりはいじめになっていると言えます。この場合はとても深刻で、本人も今まで通り、いじられキャラを演じることになり、周囲も「この程度のいじりは普通」だと思い込み、抜け出せなってしまう。
こうした関係性を背景にしたちょっとしたことで、本当に逃げ場がなくなり、ずっと笑顔でふざけているように見えている子が「死にたい」と思いつめてしまうこともあるのです。
いじめ防止対策では、表面だけを見て判断しないことが非常に大切だと思います。

いじめの行為のみで「問題の大小」を決めてはいけない

—— いじりやふざけたつもりでも度が過ぎると、深刻ないじめになってしまう。度が過ぎているかどうかはどう判断すればいいのでしょうか。

行為・行動のみを見て「度が過ぎるかどうか」を判断してしまいがちなのが問題です。どんなことをされたかだけではなく、それを受け止めた子どもがどう感じたかが大事です。
「ウザい」と言われたとしても、どのような関係において、誰にどう言われたかによって受け止め方は変わります。ふざけている仲良し同士が、「お前ウザいな~」と言っても、別段、相手が傷つくこともないと思いますよね。
しかし、もし、友だち関係において自分は疎外されていると感じ、孤独な気持ちを長く抱えている子が、誰かに「ウザい」と言われたら、そのひと言が突き刺さり、非常に傷つき、耐えられないと思うこともあるかもしれません。

—— 関係性が大事ですね。

ひどい行為は、いじめではないかとの推定が働きますが、そうでない行為がいじめではないと、全く言えないのが、いじめの特徴です。人の心が何によってどれくらい傷つくかは、人によって違います。度が過ぎているという言い方は、行為の評価になっていて、すでに傷ついている側の評価とずれが生じていることに気づいておく必要があります。
行為を見ているといじめを発見する「眼鏡」が曇ることがあることを十分理解して、いじめを受けている子どもの様子に注意を払うことが何よりも大切です。普段と少し違うな、最近、何かちょっと表情が暗いな、と、友だちでもいいし、先生でも、親でもそうした小さな変化に気づくことが、重要ではないかと感じますね。ただ、親は気がつきにくいということも知っておく必要があります。子どもが親に心配をかけまいという気持ちが大きければ大きいほど、そうなります。いずれにせよ、ちょっとしたことに気づき、声をかけてあげること。それが、子どもが今の気持ちを話すきっかけになるかもしれないし、問題の本質をつかむ糸口にはなるかもしれません。

いじめで傷ついている子が誰かに「つらい」「悲しい」と言えるように

—— そうなると、やはり子ども自身が自分の気持を伝える、言えるようになることが大切になると思うのですが。

そうですね。でも、つらい気持ちを、周囲に話せる子どもはそう多くありません。普通に振る舞っていながら、実際にはつらさを言わないで、あるいは言えないで抱え込んでいる子どもは結構いるのではないでしょうか。言っちゃうと周囲の関係を微妙に変化させるので結構勇気がいるのだと思います。深刻な話ほどそうなります。
学校では言える相手がいない、親にも話せない時に、相談できる場、言葉を発せる場があって、子どもがそこで思いを手がかりでもいいので、出すことができたらいいと思います。その点で、マモレポが、なかなか言い出せない子の言葉や周囲の子の気づきを拾い上げていける手助けとなればいいですね。
私も関わっていますが、子どもオンブズマンは、どんなことでも相談できます。独立した第三者的な立場で、秘密を守り、必要な助言や手助けを行います。相談するのに心理的にハードルが高い部分があって、なるべく子どもたちのいるところに顔を出すようにはしていますが、ハードルを下げる広報は難しいところもあるのです。いずれにせよ、こうした場所を探して、苦しい立場にいる子どもたちが胸の内を打ち明けてくれたらと願っています。

—— 自分は傷ついていると伝えられることはとても大切であると思うのですが、逆に傷ついたことを過剰に話すようなことが増えたりしませんか?なんでもかんでも「いじめ」になってしまうという声も一定数あるのが気がかりです。

そうですね。特に、相手方とのいじめであるかどうかという認識のギャップが大きいと、相手方からは、被害妄想なのではないかとか、「傷ついたと言えば、それはいじめなのか?」と思われることがあります。
ただ、いじめを訴えている子どもは、初期の段階で、相手に言っていたり、先生などに相談していたりします。だけれども、重大なことと思われず、受け止められていなかったり、受け流されていたり、聞いてもらえていなったりしていることが多いのではないでしょうか。振り返って、よくよく思い出してみると必ず思い当たる節があると思います。
そうした場合に、子どもはある意味必死に繰り返し、特に先生に訴えることになりますが、たいていの場合、訴えを重ねるほど傍から見ると、その内容が、より些細なものになっていたりします。そして、受け止めなければいけない方も、「またか」と思うようになったとき、こうしたことが起こるのではないでしょうか。
もし、そうした子どもにであったら、最初が何であったかをよく振り返ることが大切です。

—— 子どもが「つらい」と言えるような環境を作ること、そして、それを、軽いこととして受け流すことなく受け止めるしくみを整えることも大切だと思っています。私が代表をしている株式会社マモルは、「伝えられる場」としてネットを利用しています。ただネットを利用している点で「先生に直接話す、周囲に相談するといったコミュニケーション力が損なわれてしまう」という意見もあります。

今の子どもたちはSNS文化の中にいます。SNSで悩みを吐き出す子もいますし、YouTuberにいじめの相談をする子もいます。
大事なのは、口に出した「その先」です。話をすることができた、次にはその解決策を共に考えられるところにつながれるかどうかです。もちろん、それが学校であればいいのかも知れませんが、学校に限る必要はないと思います。学校側も学校でなければいけないという考えにこだわることなく、外部を受け入れる姿勢が大切です。
マモレポもSNSも入口はインターネットかもしれませんが、そこからどうするかがポイントです。いじめの問題を解決するには、その問題に誰がどのように関わっていくかによるところが大きいからです。

—— かかわり方が重要ですね。マモレポは、子どもが使いやすいようイラストを使って、いじめやつらい思い、あるいは、友だちが何かとても大変そうだということを伝えることができます。でも、発信を受け止める体制が整っていなければ、意味がありません。ですから、マモレポ導入においては、導入する学校や自治体によってどう活用していくかという点を必ず最初にお話しします。

子どもの意思を尊重しなければ本当の解決にはならない

—— いつもと違う子どもの様子に気づく、あるいは子どもから話してくれたとして、そこからどのように対応するべきでしょうか。

問題を解決するために、子どもの話にどう応えていくかは、子どもの権利にも関わる本質的な部分です。

—— どのようなことでしょう?

子どもが話してくれたら、まず、その子どもの意識・意見をしっかり把握すること。子どもは、苦しいとか、不安だとか、つらい、ましてやいじめだという表現は使わないかも知れません。大切なことは、話をしてくれたと言うことです。そこには、その子どもにとって大切なことがあるので、それしっかりと受け止めることです。
次に、解決に向けて何かをする必要があるという場合、子どもが「これならできる」と思えることをすることが大切です。ひょっとしたら、自分で言おうと考えるかも知れませんし、代わりに何かをして欲しいと考えるかも知れません。いずれにせよ、本人が、「これならできる」と思えることに耳を傾け、尊重することです。
逆の言い方をすれば、話を聞いて周囲が「これをしよう、あれをしてあげよう」と、どんどん解決策を決めてしまうな、ということです。
大人が話を聞いて勝手に判断して動くと失敗することも多いのです。もちろん、大人は良かれと思って動くのですが、それが必ずしも子どもが求めているものとは違うことは、往々にしてあります。
子どもが何をつらいと思い、どうしたいのか。どうしていいのかわからないとしたら、問題を整理し、解決に向けてのヒントを提供しながら、その考えがまとまることを待つことが大切です。そして、最終的に子ども本人がどうしたいのかを引き出していき、それを手助けすることです。
大人が良かれと思い、いじめた相手に対して何か行動を起こしたとして、子どもはそれを望んでいなかったら、結局、子どもが思う「解決」には結びつかないばかりか、かえって子どもを苦しめることもあります。
もちろん、その子どもの安全や命に関わる場合に、直ちに何かをしなければいけない場合があるということも念頭に置く必要はありますが、基本的に、子ども本人の意思がとても大事です。本当の意味で「解決」とは、子どもが「解決した」と思えること。大人が思う「解決」と子どもが思っている「解決」は違うことがあるのを忘れてはいけないと思います。

—— 学校にいじめの件を相談したら、先生が「対応しました」と言う。でもその子にとっては“いじめ”の問題は解決していない。このようなケースはたくさんありますね。

先生に限らず、大人が「このいじめを解決したぞ」と自己満足で終わってしまってはいけないのです。
大人、親も含めて先生も、専門家でも、それぞれの立場でいじめの相談を受けると、経験的にあるいは専門的に解決のイメージを持ちます。なるほど、そういう問題か。それなら、こうしてあげればうまくいく、と思うわけですが、子どもは「そんなことはしてほしくない」と思っているかもしれない。
たとえば、以前こういうことがありました。
私は親から、もうひとりの相談員は子どもから話を聞きました。その後、親子と私たちがひと部屋に集まり、私が親の話をもとに話を切り出してみると、子どもの表情が少し変わった。あれ?という感じでね。もうひとりの相談員が、ちょっと違うということで話に加わりました。
もともと仲良しの親子でしたが、少しずつ話がずれていました。順序だったり、重きをおいているところだったり、小さなことですが、しかし、違うのです。結果として、子どもの解決イメージと、親が思う解決イメージも微妙に違いました。
もし親が思っている解決イメージを実行したとしても、子どもは依然としてつらい思いを抱えたままです。子ども自身が思っている「こうしてほしい、こうなってほしい」という解決のイメージを実現しなくては、本当の解決とはならないのです。

—— 正しい解決法だと思っても、子ども自身が「この問題は解決した、よかった」と思えなければ、結局、解決はしていないのに等しいわけですからね。

・・・・・・・・・ 後編に続きます ・・・・・・・・・