2019年9月25日

ネットいじめと葬式ごっこ

少し前のことになりますが、2019年8月24日、東京都人権プラザでトークイベント「ネットといじめ」が開催されました。

このトークイベントには、スマイリーキクチさん、上智大学グリーフケア研究所の非常勤講師である入江杏さん、こども六法を出版された教育研究者の山崎聡一郎さん、そして私も登壇させて頂きました。

スマイリー4人

 

トークイベントでは、ネット上のデマ拡散についても語られました。
小さなウソ偽り、深く考えていないデマが広まり、ひとりの人間をとてつもなく傷つけることは、現代では誰にでもあり得るリスクです。スマイリーキクチさんの発言「元の発信が借金だとすれば、リツイートは借金の連帯保証人になることと同じ」が印象に残りました。

スマイリー入江さん3人

トークイベントでは話題にあげませんでしたが、私自身、この頃ネットいじめに関して、よく思うことがあるので、そのことについて少し書きたいと思います。

「ネットいじめ」はネット上で起こることです。では、ネットがなかった時代には、似たような現象はなかったのでしょうか。

私が思い出すのは、1986年(昭和61年)に東京都中野区で起きた「葬式ごっこ」という、いじめの事件*です。

*1986年2月、中2の鹿川君が自殺。同級生からいじめられており、
殴る蹴るの暴力行為などだんだんとエスカレートしていきました。鹿川君を死んだことにして葬式をイメージし、クラスの多くの生徒が、鹿川君の机に、色紙や花、夏ミカン、線香を飾り、色紙にはクラスの生徒や先生の追悼の言葉が書かれていた事件です。

この事件には、実に4人もの教員が参加していたという驚きの事実もありました。悪ふざけとはひと言ではすまされない、深い闇があることに、大人である教員でさえ、気付かなかったのでしょうか。

この「葬式ごっこ」から8年後、鹿川くんと一緒のクラスだった生徒が証言として書いた文章が公開されているようです。転載になりますが、抜粋すると、

「鹿川が死んで以来、自分があの事件に少しでも関係があった、という事実から、ずっと、逃げていた。自分があのいじめを見ていても、止めることができなかった弱い人間だ、と。他人に思われることが死ぬほど嫌だったから。

ぼくはいつも、見かけだけの人間だった。今年の春ごろになって、やっと、自分なりのとらえ方ができたような気がする。自分は小学生の時、よく陰湿ないじめにあったので「いじめはどんな小さなものでも絶対に許さない」という信念をもっているつもりだった。

しかし中学に入って、周囲であまりにも日常的に目にする子どもっぽい幼稚ないじめによって、小さないじめや嫌がらせに対する感覚が麻痺していったように思う。自分もかつて陰湿ないじめにあったことから、人の痛みがだれよりも分かるはずなのに、環境に慣れてしまった。いま思うのは、人間はとても弱く、もろいものなんだ、ということだ。(中略)

ぼくは彼を、直接いじめた人間ではない、と思う。ただ、彼(鹿川)との友情から、自分から離れていったことと、葬式ごっこに加担したこと、この二つの行為で、彼の命を引き止める本当に重要な絆を、断ち切ってしまったことだ、と思っている」

http://cms.gifu-gif.ed.jp/seiryu-j/uploads/1400060271_%F2%BC%B0%A4%C3%A4.pdfより抜粋

私はこの記事を読みながら、なんともいえないやるせなさを感じました。ネットという世界がなかった時から、言葉の暴力はありました。つまり、いじめの場所や背景が変わっただけではないか、と、私は思うのです。

集団の心理は、その中に飲み込まれていく流れを作ります。集団によるイジメの怖さはそこにあります。

この少年も、「葬式ごっこ、みんな書いているし、つい自分も」と流されたのかもしれないし、あるいは「みんなが書いているのに、自分が書かなかったら、次は自分の番かも」と思ったのかもしれません。

流れに抗うのは特に子どもにとっては難しく、また安易に流されていく傾向も強いように思います。

そして、小さな意地悪をきっかけにして、それはやがて、いじめとして恐ろしいほどにふくれあがってしまう時があります。

LINEをはじめとするネットいじめも、クラスで起こるいじめも、根本は一緒です。しかし、怖いのは、LINEやネットは「閉じられているのに、開かれている」こと。親が気づけない子どもの世界があり、しかしその世界は際限なく拡散するという、底なし沼のような怖さがある。

だけど、私は思うのです。葬式ごっこ、という陰湿なイジメもまた、底なし沼のような怖さを感じると。ずっと昔からイジメの問題はあり、それがネットというツールのもとで、いま、さらに深い闇の中へ潜り込んでいるようにも感じます。

いじめは、人の命を奪ってしまうほどの怖さがあることを、私たちは常に繰り返し思い出し、いじめの対策を考えていかなくてはいけないのだと、本当に思います。

 

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